高村光太郎終焉の地、
中西利雄アトリエ保存にご協力を
(写真撮影:藤島宇内)
現在の署名数 → 3541名
ご 協 力 、 誠 に あ り が と う ご ざいます。
お知らせ 11月10日(日)午後2時より 中野ZERO
渡辺えり 講演会
※好評のうちに終了いたしました。
「連翹の花咲く窓辺 高村光太郎と中西利雄を語る」
進行役 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営員会代表)
講演会の様子はこちらからご覧いただけます(Youtubeへと飛びます)。
2024.11.10 講演会「連翹の花咲く窓辺……高村光太郎と中西利雄を語る」
2024.11.11 講演会「中西アトリエの魅力……水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」
ご挨拶
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会代表
渡辺えり (劇作家・俳優)
中野駅南口から徒歩7分のところに、晩年の高村光太郎が足掛け5年に渡り過ごしたアトリエがあることはご存じでしょうか。このアトリエを守ってこられた所有者が昨年亡くなり、存続の岐路にあります。高村光太郎と縁のある貴重な建物です。是非、後世に残していただきたいと思います。
アトリエの持ち主中西利雄は戦後日本の水彩画の革命者
このアトリエは、日本の水彩画の父と言われた中西利雄が、昭和23年(1948)に建てました。しかし、この年、中西は病気のため48歳の若さで完成を見ずに亡くなりました。戦前フランスに渡り、昭和の初期、水彩画の世界に新しい息吹を吹き込み、水彩画の革命者と言われました。昭和11年(1936)、新制作派協会を設立、戦後、美術の教科書に作品が載るなど学校教育においても多大な影響を残しました。
高村光太郎は十和田湖畔に立つ「乙女の像」の塑像を制作
高村光太郎は、昭和27年10月から昭和31年4月まで、このアトリエに足掛け5年にわたり過ごしました。当時、青森県知事だった津島文治(太宰治の兄)の依頼で、光太郎は「乙女の像」の制作に着手します。十和田湖畔に立つ「乙女の像」の塑像はこのアトリエで制作されました。光太郎はここで昭和31年4月2日に亡くなります。翌年、光太郎を偲ぶ第一回連翹忌はこのアトリエで開催されました。 それから場所を変え、連翹忌は今年で68回目を迎えました。
アトリエは近代日本建築リーダーの山口文象の作品
また、このアトリエは、近代日本建築運動のリーダーのひとりであり、モダニズム建築デザインの名手であった建築家・山口文象の設計です。彼は、関東大震災後エリート抜きのラディカル建築運動を起こしました。こうした運動は、現在の新建築家技術者集団へと繋がっています。今改めて、このアトリエは建築関係者からも注目されています。
イサム・ノグチも住み、草野心平も通った
彫刻家・造園家のイサム・ノグチは昭和25年から2年にわたり、このアトリエで過ごしました。現在、イサム・ノグチ庭園美術館は香川県高松市に、イサム・ノグチ美術館はニューヨーク市にあります。彼は、1987年芸術家にとって最高の名誉であるアメリカ国民芸術勲章を受けました。彼は、現在でもアメリカで根強い人気があります。
また、草野心平は高村光太郎のよき理解者で、光太郎が病いに倒れた後も、何度もこのアトリエに足しげく通いました。そして、光太郎の最期を看取りました。
後世に残すべく大切な美術的、建築的、文化的日本の文化遺産
中西利雄、高村光太郎、イサム・ノグチは皆、戦争を体験した世代です。光太郎は戦後、戦争責任を問われました。イサム・ノグチは、戦中戦後アメリカと日本の2つの祖国のルーツに悩みました。今、国際的に困難な問題が多数生じています。今を生きる私たちは、次の世代に「本当に大切なものは何か」を伝える責務があると思います。その意味で、このアトリエは、歴史的、美術的、建築的、文化的にもとても貴重な文化遺産だと思います。
昨年1月、長年このアトリエを守ってきた中西利雄の長男利一郎氏が亡くなりました。残された奥様も「維持費もかかるし、公的な機関が動いてくれなければ、壊すしかない」と話しています。このアトリエの活用法は様々あると思います。例えば、中西や光太郎の展示会や朗読会、若い芸術家の発表場所など、工夫次第で様々なことができます。改修を行いきちんと保存すれば10年後、50年後、大変貴重なかけがえのない日本の文化遺産になるはずです。
今すぐ皆様の温かい署名をお願いします
様々な付加価値を持つこのアトリエを、ぜひ後世に残したいと思います。そのためには多くの人たちの協力が必要です。この趣旨に賛同される方は署名をぜひお願いします。このホームページから直接署名できます。また、ここから署名用紙を印刷し紙媒体で署名することも可能です。
また、皆様の周りに中西アトリエに関心のある方がおられましたら、署名を勧めていただけますようお願いいたします。多くの皆様の賛同により、貴重な歴史的建造物であるアトリエを守る道が開かれることを願っております。
挨拶
偉業を達成するには、揺るがぬ信念が必要です。それが、我々が成果を出せる理由です。
==最新情報==
渡辺えり 講演会 「連翹の花咲く窓辺 高村光太郎と中西利雄を語る」
「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」は好評のうちに終えることができました。ありがとうございます。
保存する会のメンバー
渡辺えり(代表)
劇作家・俳優
高村光太郎が死の直前まで作品を作り続けた中西利雄アトリエが中野区にそのままの形で残っている。利雄さんの御子息が早くに亡くなった父、利雄の代わりにアトリエで作品を作り続けた光太郎の芸術に対する熱い情熱と父との思いを重ね、生前のままの姿のアトリエを守り続けたのである。利一郎さんにとってこのアトリエは父そのものであったろう。
戦前日本の芸術家の代表として大戦を推し進めてしまった一人としての光太郎は生涯その反省と平和への祈りに向かい、ストイックに作品作りに没頭した。当時死に至る病だった結核と闘いながら製作した大作、十和田湖の「乙女の像」はこの中野のアトリエで創られた。利一郎さんの母が光太郎の身の回りのお世話をし、窓の外に咲く連翹の花の名前を光太郎に知らせた。病気と闘いながら中西一家とともに完成した「乙女の像」光と影、過去と未来二人の智恵子が向かい合ったその裸像は過去を忘れることなく新しい平和な未来を作ろうとする光太郎最後の痛恨の思い、諦めない情熱を当時そのままのアトリエとして中野区に残したいと切に思うのである。
小山弘明(事務局)
高村光太郎連翹忌運営委員会代表
光太郎が昭和20年(1945)から中西アトリエに移る昭和27年(1952)まで7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋は、光太郎没後に光太郎を敬愛していた村人たちの手によって二重の套屋(とうおく、カバーの建物)がかけられ「高村山荘」として当時のまま残され、全国のファンが訪れ続けています。中西アトリエも、光太郎を偲ぶよすがとして、ぜひとも後世に残したいと存じます。一度毀してしまったものは元に戻りません!
曽我貢誠(事務局)
日本ペンクラブ
アトリエ保存には、どうしてもお金の問題が避けられません。行政だけではなく、民間からの協力もお願いしたい。もう一つの鍵は、保存した後に、このアトリエが長年に渡ってお荷物になるのか、それともお金のなる木になるかということが重要です。全国の皆さんからアトリエ活用の斬新なアイデアを募集します。これからも、中西家の納得が得られるように努力していきたいと思います。
十川百合子(事務局)
中野たてもの応援団
私はお茶の水の文化学院の卒業生で大先輩に石井柏亭四女で画家の田坂ゆたかさんがいらっしゃいました。学生時代のアルバムを見せていただいた時、アコーディオンを弾く中西利雄を囲んで歌っているゆたかさんら生徒の写真を見つけました。ゆたかさんは親の薦めで中西先生に水彩画を習っていたそうです。前身のアトリエの頃です。利一郎さんは、ゆたかさんのことをよく覚えていらして「ブルパン(いつも青いズボンをはいていたから)と呼んでいたよ。」と懐かしそうでした。中西先生は亡くなる前年に文化学院で教えておりご縁を感じています。
櫻井美佐(記録)
フリー校正者(光太郎親戚)
連翹忌で曽我さんに中西アトリエの保存の話を伺ってびっくりした。
見学会が7月に実現した。中野駅南口から右折して小路へ。この道を北川太一さんが歩いた。草野心平さんが歩いた。
アトリエは75年前の姿そのままだった。アトリエの大きな窓を仰いだ。光太郎と同じ窓を見ている。この窓の前で乙女の像を作った。渡辺えりさんの戯曲「月にぬれた手」の場面が蘇った。小さな窓から、桃園川の連翹を見たのだろうか。ここで、結核が進み、あの頑丈な大きな身体が弱ってしまった……何か気を感じた。
東京で唯一の光太郎が暮らした建物が保存されることを心より願っている。
角田宜子(記録・会計)
会社員
原詩夏至(運営委員)
詩人・歌人・俳人
最晩年の高村光太郎を優しいせせらぎ、そして河畔の連翹の花々と共に見守り続けた桃園川は、今は埋め立てられ、静かな緑道です。そしてそこから仰ぐアトリエは、まるでこの地に縁を結んだ多くの芸術家たちの足跡を伝える白い、小さなピラミッドのようです。絵画、彫刻、建築、詩歌、等々、ジャンルを超えて交錯する美への、理想への夢と情熱。先人たちの想いが、これからも、訪れる人々を静かに照らし続けてくれることを願います。
遠藤哲司(運営委員)
俳優
大瀧満(運営委員)
町おこし 演劇製作者
出口佳代(運営委員)
朗読家
舩木一美(広報)
プランニングディレクター、デザイナー
練馬区の東大泉に住んでいた頃、近くに「牧野記念庭園」があり、牧野富太郎を知った。またかつての勤務先だった下落合の隣の中井に「林芙美子記念館」があることを知り、行ってみて感銘を受けたことがあった。高村光太郎の終焉の地が中野であり、そこが水彩画の父、中西利雄が建てたアトリエであったことなど、友人に教えてもらうまで全く知らなかった。先の2件のごとく建物・場所そのままに残せるものならば…と、切に思う。
遠藤ヒツジ(ホームページ)
日本詩人クラブ会員
勝畑耕一
文治堂書店代表
長谷川亨次
故中西利一郎友人
伊郷吉信
自由建築研究所
多児貞子
フリーランス(東京駅始め建築の保存活動多数)
田村公一
みすゞ設計事務所
高島りみこ
装幀者
中西画伯のアトリエを是非残していただき、高村光太郎の仕事や画伯との関わりを、後世に続く人々にバトンタッチしていっていただきたく思います。撤去してしまったら、元に戻すことはできません。先人がどのように生きてきたのかを知ることは、今生きている私たちにとっても重要なことです。
山岸茂
元信託銀行
村島章恵
NHKエディケーショナル
野藤優
studio9 X 共同主宰一級建築士
一目見て価値ある建築だと感じました。戦後間もない木造モダニズム建築が大事に使われてきたことが分かります。シンプルながらもその独特な佇まいと空間がかつての芸術家たちを育ててきたのでしょう。丁寧に使われ、手を加えられていくことが建築の保存となります。これまで愛されてきたこの建築を途切れさせず、次の世代に繋いでいくことが私たちにできる文化的な営みなのではないでしょうか。
下平貴也
studio9 X 共同主宰
「中西アトリエ」は、建築的な価値が高く、歴史性を持った数少ない建築の一つです。
何より私は、桃園川緑道から眺める建築の原風景を保存し維持していく必要があると強く感じます。また、著しい都市循環の中で、普遍的な価値を維持し続けてきたその物語性も忘れてはなりません。次の世代に新たな歴史としての価値や意思を継承していくことが重要です。我々と同様に一人でも多くの人が共感し賛同してくれることを期待します。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会事務局
▼曽我貢誠 郵便番号(113-0031) 東京都文京区根津2-37-4-801
メールアドレス:[email protected] FAX番号03-3821-9210
▼曽我 090-4422-1534 ▼小山弘明 090-6175-6254