当会について
昭和23年(1948)、日本の水彩画の父と言われた中西利雄が中野区桃園町(旧名)にアトリエを建てました。
この建物は日本の近代建築運動のリーダーであった山口文象の作品です。
中西利雄は完成間近に病気を患い48歳の若さで亡くなりました。
その後、このアトリエは様々な芸術家に貸し出されました。
特に世界的に知られたイサム・ノグチや高村光太郎がいます。
光太郎は昭和27年(1952)10月から31年(1956)4月2日に亡くなるまで三年半にわたりここで過ごしました。
彼の代表作である十和田湖畔に建つ「乙女の像」の塑像もこのアトリエで制作されました。
日本の優れた美術家、彫刻家、建築家、詩人などが関わったこのアトリエは日本の貴重な文化遺産です。
是非後世に残してほしいと思います。
活用法については、中西利雄、高村光太郎の作品展示や若い芸術家へのアトリエ提供、朗読会など工夫次第で様々あると思います。
これらを実現するためには多くの賛同者が必要です。
この趣旨に賛同する方は、名前などをお知らせ下さい。
今後、様々な議会や関係機関に提出する要望書や依頼状に賛同者として活用させていただきます。
そしてあなたの身の回りにこの趣旨に賛同する方がおられましたら、一人でも多くの方の署名をお願いします。
中西利雄アトリエの建築
伊郷吉信(自由建築研究所) 協力・田村公一
中西利雄アトリエは中野3丁目の桃園川緑道の北側に位置している。万代塀の向こうに片流れの屋根と大きく育ったシュロが見える。戦中に桃園川沿いは強制疎開が行われ、ここに建っていた前身のアトリエはその際に取り壊された。強制疎開は第二次世界大戦の折、空襲による類焼から守るため家屋を強制的に解体し防空空地を設ける政策である。昭和17年(1942)から昭和20年(1945)まで行われた。利雄の長男、利一郎氏によれば、近所の人々が手伝い、皆、断腸の思いで取り壊したそうである。そして終戦後の昭和23年(1948)に、基礎はそのままであったところに現在のアトリエが再建された。
中西利雄(1900〜1948)は洋画家・水彩画家として有名である。明治33年(1900)東京に生まれ、大正11年(1922)東京美術学校西洋画科に入学した。水彩画に専念し、在学中に日本水彩画会の会員となるほか、帝展、光風会展に出品、光風会賞を受賞した。昭和2年(1927)に卒業すると研究科に在籍し、昭和3年(1928)~昭和6年(1931)渡仏しサロン・ドートンヌ展に入選、ヨーロッパ各地を巡遊した。昭和9年(1934)第15回帝展で特選、翌年の第二部会展で『婦人帽子店』が特選、文化賞を受賞した。昭和11年(1936)新制作派協会の結成に加わり、終始、不透明水彩画を用いた明快な色調と近代的な感覚を持つ独自な画境を築き、それまで油絵が主流であった我が国の洋画界に対して水彩画の確立を唱え作品を発表した。しかし、昭和23年(1948)、このアトリエの完成を見ずに亡くなった。48歳であった。
新制作派協会は帝国美術院改組に対抗しできた第二部会が帝展文展復帰に反対して結成された在野団体である。猪熊弦一郎、内田巌、小磯良平、佐藤敬、三田康、中西利雄は、昭和11年(1936)
7月同会を離脱し、伊勢正義、脇田和、鈴木誠らと新制作派協会を設立した。美術界における政治的抗争を排し純粋な芸術活動に専念する旨を宣言した。同年11月第1回公募展を開催。その後、昭和14年(1925)彫刻部を、さらに昭和24年(1949)、谷口吉郎、丹下健三、前川國男らにより建築部が新設された。
このアトリエを設計したのは後に新制作協会建築部のメンバーとなった山口文象である。山口文象(1902〜1978)は明治35年(1902)東京浅草に生まれる。蔵前の職工徒弟学校に学び清水組に入社した。清水組を退社し、中条精一郎の紹介で逓信省に図工として就職した。ここで岩本禄、山田守、吉田鉄郎等に出会い分離派建築会に加わる。震災後の大正12年(1923)にはエリート抜きの創宇社を結成よりラディカル建築運動に走った。こうした運動は戦後、新建築家集団そして現在の新建築家技術者集団へとつながるが、山口文象には建築作家と運動家という二つの側面がある。昭和5年(1930)日本を脱出しグロピウスの事務所に働くがナチの台頭により帰国した。
逓信省図工時代に仕事が終わると本郷春木町にあった岡田三郎助の美術研究所にデッサンを勉強に通っていたという。この研究所で山口は猪熊弦一郎を始め多くの画家と知り合ったという。このあたりの人脈に中西利雄が山口文象に設計を依頼した関係が想像できる。戦後昭和28年(1953)にはRIA建築総合研究所を設立し組織で作品を発表した。
戦争中は一般建築の需要はなくなるが、林芙美子の住宅(現林芙美子記念館)のような大工の技量を生かした和風建築作品もある。戦後も交友のあった猪熊弦一郎に紹介された高松美術館、久が原教会などの設計をしている。
中西利一郎氏のもとには中西邸アトリエ設計図と題した平面、配置、立面、断面、詳細図の各図面が残されている。ここには「1948.6.16 山口文象建築事務所」の印が押されている。また外観、内観透し図、鳥瞰図などが残されている。
戦後間もない山口文象建築事務所で中西利雄アトリエの図面をひいたのは小町和義である。小町は昭和2年(1927)、八王子の宮大工棟梁の家に生まれ、山口文象建築事務所には昭和17年(1942)年から昭和24年(1949)まで所属しており、戦中と終戦直後の山口文象を最もよく知る人物である。
中西利雄アトリエ、また、新制作派の彫刻家早川巍一郎アトリエは、小町が設計から現場までほとんど一人で担当したという。
なお、小町は山口文象建築事務所を独立し番匠設計を設立するが、木造住宅、寺院、数奇屋の佳作建築作品を設計している。みたか井心亭、福生福庵、津和野町立安野光雅美術館など代表作がある。
中西利雄アトリエは建坪17坪のシンプルな外観のアトリエである。一部の間仕切りの変更等の他は、ほぼ当時のままで残されている。外壁の白いドイツ下見板は当時、すみれ色であった。
外観は片流れ屋根で軒を見せない意匠である、この意匠は戦前からつながるモダニズム建築の系譜と考えられる。戦後には住宅作家が取上げる例が多くあるが、その先駆けとも考えられる。
またアトリエ建築では、作家が制作するスペースの北側に窓を設け、直射日光を防ぐ工夫をするがここでも北側に大きな開口を設け柔らかな光を取り込んでいる。内装もまた壁、天井を完全に白く仕上げていて線を消し去る近代の手法がありモダンである。
内部のアトリエを見下ろす2階の手摺が一部張り出した変わった形をしているのは、ここで猪熊ら仲間の楽隊が演奏し、皆でダンスを楽しもうという計画であったそうである。中西は、講習会の前には『デッサンの歌』を歌い、また戦争中、近所の子供たちにアコーディオンを聴かせるやさしい先生でもあった。それ以外にも作品を俯瞰できるように使用されたことも考えられる。
画家亡き後、未亡人がアトリエを完成させ知人に貸すことになった。昭和25年(1950)~昭和27年(1952)イサム・ノグチ、昭和27年(1952)~昭和31年(1956)高村光太郎がこのアトリエを使用した。高村光太郎は十和田湖畔に建つ「乙女の像」の塑像をこのアトリエで制作し、ここで亡くなった。そして戦後は利一郎氏がアトリエを守り継いできた。
中西利雄アトリエに訪れた主な人々
(執筆:小山弘明)
津島文治(1891~1973)
青森県知事。作家・太宰治の実兄。「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦像・(通称・乙女の像)」制作を光太郎に依頼。
佐藤春夫(1892~1964)
作家・詩人。大正3年(1914)には光太郎に肖像画を描いてもらうなどした。太宰治を通じて津島知事とも交流。青森県からの「乙女の像」制作依頼を光太郎に仲介。
谷口吉郎(1904~1979)
建築家。主な作品に東宮御所、帝国劇場、東京国立博物館東洋館など。中西利雄とも交流。「乙女の像」を含む十和田湖畔休屋地区の公園一帯の設計を担当。
草野心平(1903~1988)
詩人。大正期から光太郎と深く交流。同郷の智恵子とも親しかった。「乙女の像」制作時の光太郎の身の回りの世話等を積極的に行い、その終焉には一足違いで間に合わなかったものの、最期を看取った一人である。光太郎没後はその顕彰活動の先鞭をつけた。
水野清(1925~2019)
衆議院議員、総務庁長官、建設大臣などを歴任。光太郎の親友だった作家・水野葉舟の子息。政界入りする前はNHKに勤務し、ラジオ番組制作のためたびたび光太郎の元を訪れた。
初代水谷八重子(1905~1979)
女優。光太郎が歿した翌年、北條秀司脚本の舞台「智恵子抄」で智恵子役を演じた。舞台化の交渉のため、草野心平に連れられて光太郎の元を訪れた。
秋山ちえ子(1917~2016)
ラジオパーソナリティー。TBSラジオで45年間にわたり「秋山ちえ子の談話室」を担当。その前に放送されていた「私の見たこと、聞いたこと」という番組でアトリエを訪れ、光太郎と対談、昭和29年(1954)にオンエアされた。
長岡輝子(1908~2010)
女優。詩の朗読について光太郎のアドバイスを受けるため、アトリエを訪れた。
田沼武能(1929~2022)
写真家。雑誌『芸術新潮』の取材でアトリエを訪れ、「乙女の像」制作風景を撮影した。
高見順(1907~1965)
作家・詩人。光太郎が花巻郊外旧太田村にいた昭和25年(1950)、著書『樹木派』の題字を光太郎に書いてもらった。昭和30年(1955)には雑誌『文芸』の企画で光太郎と対談するためアトリエを訪れた。
土方定一(1904~1980)
美術評論家・詩人。のちの神奈川県立近代美術館長。「乙女の像」建設委員会在京委員の一人であった。
亀井勝一郎(1907~1966)
文芸評論家。昭和27年(1952)、NHKラジオでの光太郎との対談のためアトリエを訪れた。
佐藤隆房(1890~1981)
医師。総合花巻病院長。宮沢賢治の主治医でもあった。昭和20年(1945)の光太郎花巻疎開に、賢治の父・政次郎らとともに尽力。光太郎が疎開した宮沢家が空襲で全焼後、郊外旧太田村に移るまで約1ヶ月、自宅離れに光太郎を住まわせてくれた。光太郎没後は花巻高村記念会理事長を永らく務めた。
バーナード・リーチ(1887~1979)
陶芸家。明治40年(1907)、光太郎が留学していたロンドンの美術学校で知り合い、日本熱が嵩じて来日、陶芸を日本で始めた。戦前にはイギリスに帰り、伝統的な作陶法の復活に力を注いだ。昭和29年(1954)に久しぶりに来日、アトリエを訪れて旧交を温めた。
高村豊周(1890~1972)
光太郎実弟。鋳金家。昭和39年(1964)に人間国宝に認定。家督相続を放棄した光太郎に代わって高村家を嗣いだ。光太郎没後は高村光太郎記念会理事長を務めた。
高村規(1933~2017)
豊周長男。写真家。日本広告写真家協会会長、豊周歿後は高村光太郎記念会理事長を務めた。祖父・光雲、伯父・光太郎、父・豊周の作品を撮影し、それぞれ写真集として刊行した。
北川太一(1925~2020)
高村光太郎記念会事務局長、高村光太郎連翹忌運営委員会顧問。晩年の光太郎に親炙し、草野心平ともども光太郎顕彰に先鞭をつけ、『高村光太郎全集』の編集などに当たった。
イサム・ノグチ(1904~1988)
彫刻家。光太郎の前に中西アトリエを借りていた。父の野口米次郎は光太郎と交流のあった詩人であった。
山口淑子(1920~2014)
イサム・ノグチの妻。日中戦争開戦の翌年、女優・李香蘭として国策映画等に出演。敗戦後の引き揚げに際しては光太郎や草野心平、宮沢賢治らと交流のあった日中ハーフの詩人にして中国国民政府軍将校・黄瀛が骨を折った。草野心平を通じ、光太郎がその肖像彫刻を作る計画もあったが実現しなかった。のち、参議院議員。
陶山侃(1931~1988)
洋画家。光太郎の後に中西アトリエを借りた。